2006年 11月 11日
1932年初め、アーベントロートのセビリアの理髪師のG&Tを入手し、それに深く魅惑されたLeo Riemensは、彼女にファンレターを書く。彼女からは返事とともに、1904年に彼女の夫によって出版された、彼女の詳細なキャリアが56枚の役に扮した写真とともに記された本が送られてきた。この物語は、その本をもとに書かれたRecord Collector誌の記事 [1]の抄訳である。また上掲のポートレートは[2]に拠る。 10代で有名歌手、36歳で引退という数奇なキャリアを持つイレーネ・アーベントロートは、1872年7月14日ポーランドのLembergで生まれた。その当時Lembergはオーストリア・ハンガリー帝国に属し、両親はオーストリア人であった。 1881年4月14日、8歳で最初のコンサートをLembergで開く。声域は2オクターブを越え、ハイDまで達した。また自然なトリルを自在に使いこなし、Little Pattiと呼ばれた。 1884年、奨学金をもらって12歳で母と妹とともにウイーンに勉強に出た。最初の先生は、この子には何も教えることが無いと言った。次の先生はもっと不真面目で、何も教わることなく数ヶ月を無駄に過ごした。それで、母はウイーン・オペラの音楽監督のJahnにアドバイスを乞い、彼女はコンセルヴァトワールのLampertiの弟子のFrau Wilzekのもとへ送られた。彼女はここで1887年までいた。このあと、Mampe-Babbnigg教授について1年間学んだ。 1888年7月17日、ちょうど16歳になったばかりのイレーネは、Karlsbadで大人の歌手としてのコンサートデビューをした。Jahnはこれを聴くために旅をしてきて、直ちにウイーン宮廷歌劇場の契約を申し出た。 彼女は1889年1月31日にデビューをしようとしたが、1月30日に起こったMayerlingの悲劇[3]で歌劇場が閉鎖された。それで、18889年2月15日に、La SonnambulaのAminaでデビューした。 しかし宮廷歌劇場では、最初から仲間のジェラシーにさらされた。一人のソプラノは、ステージに出ようとした彼女の長い茶色の髪を、これがホンモノとは信じられないわと言いながら、グイと引っ張ったりした。ほかの者は、16歳のプリマドンナですって、次は元気な赤ちゃんがジークフリートを歌うために雇われるに違いないわ、と揶揄した。 かわいそうなイレーネはひどい頭痛でその夜は歌った。でも、この頭痛は彼女の歌を妨げることはなかった。この日の批評は、文句無しにベタ誉めだったのである。 次の日、頭痛はさらに悪くなった。医者が呼ばれ、芽の出たばかりのプリマドンナはおたふく風邪にかかっているとわかった。数週間、彼女はダウンしたままだった。 5月15日にやっと復活して、セビリアの理髪師のロジーナを歌った。次に3番目の役、ルチアを歌ったが、彼女のスタイルはあまりに個性的、先進的で、ウイーンの聴衆には受け入れられなかった。彼女はルチアを生き生きとした性格に作ろうとしたが、それは1889年のウイーンのイタリア・オペラでは行われていなかったのである。彼女は4番目の役を与えられなかったし、Jahnは再契約をしなかった。 ガリシアとポーランドへの旅の後、彼女はリガ(その当時はロシア)の劇場と契約した。ここでアーベントロートは1890-91年のシーズンを歌った。 1891年、ミュンヘンのオペラと契約し、ここに1894年までいた。彼女はミュンヘンの聴衆の間で最も好ましい歌手の一人になった。 1894年、22歳のとき、ウイーンに帰って、リベンジを期した。彼女は、引退寸前のマリー・レーマン(リリ・レーマンの妹)の後継者になろうとしたが、直ちに再び、嫉妬深い陰謀に見舞われた。 最初の役はトロバトーレのレオノーラ、彼女はこの役をリリック・コロラトゥーラのベルカントとして演じたが、当時のウイーンでは、重い声のドラマティック・ソプラノによって歌われるのが伝統だった。彼女の成功は、役を失うのではないかと心配した旧来スタイルの歌手の憎しみをかった。同様に、まだ現役だったマリー・レーマンやその一派の妬みも。 かわいそうなアーベントロートは、ほとんど歌えなかった。もし歌うとしても、端役しか回ってこなかった。 ウイーンが彼女を新たに見出すのに2年かかった。グスタフ・マーラーが音楽監督に指名され、アーベントロートを起用した。1898年、彼女はノルマのAdalgisaを歌った。しかし見当違いのジャーナリストはマリー・レーマンを良しとするキャンペーンを行った。これが引き金となり、イレーネ・アーベントロートは、5年の契約が切れた後、マーラーが必死に引きとめたにもかかわらずウイーンを去った。 彼女はドレスデンと契約した。ここで彼女はもっとも素晴らしい期間を過ごし、ドラマティック・コロラトゥーラへ進化する。 1902年10月21日、彼女はトスカのドイツ初演を創唱した。この創唱で彼女は音楽史に残る地位を得た。彼女はトスカがベルカント期の歌手であることを忘れたことが無かった。 さらにノルマでセンセーショナルな成功を収めるが、1908年、36歳で突然引退を表明し、彼女の残りの時間は夫と子供にささげられた。 夫は年金生活者で、年金は年々減るばかりで、お金の価値は落ちるばかり、召使無しで、彼女は家事一切をやった。ついに彼女の心臓はその労苦に耐えることができなくなった。最後は突然にやってきた。1932年9月1日のことであった。 References [1] Leo Riemens, “Irene Abendroth”, The Record Collector, Vol. VI, No. 4 , (April 1951) 77-84. [2] http://portrait.kaar.at/Oesterreich%20Kultur%2019.Jhd%20Teil%201/image1.html [3] Mayerling tragedy, http://www.visualstatistics.net/East-West/Mayerling%20Tragedy/Mayerling%20tragedy.htm #
by ibotarow
| 2006-11-11 06:47
| 女声_ラッパ吹き込み
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